逆撮カメラマン選考に寄せて

今回43名ものカメラマンの方々にご応募頂き、その審査を行うことで、私は普段「選ばれる側」の立場のため、選ぶ側になるというのはまさに立場の逆転、逆転撮影会をいち早く実感することとなりました。もっとも感じたのは選ぶ側のカメラマンの方々が「お金を払って撮っているから自由」ではないということ。誰かを選ぶということは誰かを選ばないということであり、そこに発生する人間心理、一言で表すならば「申し訳ないな」という感覚。撮って欲しいと望むモデルたちと、そのモデルの中から誰かを選ぶという選択、すなわち多くを切り捨てるという選択。創造において選択をするという自分自身への責任。選ぶ、選ばれるというそれぞれの立場が抱える葛藤。選ぶ側しか知りえない感覚を、立場の逆転により身を持って実感できたことは逆転撮影会を開催するうえでとても大きなことでした。応募してくださった43名のカメラマンの方々に心から感謝致します。

さて、今回審査を行わせて頂き、非常に残念に感じたことがあります。
それは「応募写真及び自己PRが主旨を掴んでいない」ということが多いことでした。
今回募集したのは3月17日の逆転撮影会という場において、金銭のやり取りが発生する、仕事として写真を撮るカメラマンです。モデル側がアマチュアカメラマンを指名しお金を払ってお客様となるイベントです。
したがって、今回の募集はフォトコンテストなどと違い、
個人の作品、その人の持つ可能性を評価するものではありません。
3月17日の現場において、どれだけ顧客ニーズに応えられるか。
それを、応募段階で示して頂きたかった。

今回、逆転撮影会運営では応募者43人のSNSなどを念入りにチェックし、応募用紙に書かれたPRから一次選考を行い、二次選考、顧客ターゲットとなる女性10名で構成される審査会への推薦という形を取りましたが、ご自身のSNS投稿写真のほうがはるかに応募写真よりも主旨に添っているということが多々ありました。

逆の立場の場合プロフィール写真(宣材写真)の良くないモデルは、まずその段階ではじかれます。プロフィールで目に留まったモデルだけが、SNSなども見て頂ける。
SNSは入り口ではなく、入り口のその先にあるものです。
入り口である「応募写真」に、自身の技術、思い、そして今回の企画への理解度、3月7日当日に自分がどれだけのことが出来るのか、それを詰め込んで応募して頂きたかった。
風景写真や、スナップ写真も多く送られて来ましたが、どれだけ写真が素晴らしくても、それは今回逆転撮影会の求めるものではありません。また、今回は当日使用するスタジオ事前に公開しています。そのロケーションに近い空気、まずはスタジオでどれだけ撮れるか、またあのスタジオの雰囲気を活かした写真が撮れるのか、そしてメイン顧客となる女性をどれだけ撮ることが出来るのか、それをPRして頂きたかった。

私たち撮影会モデルは、衣装からヘアメイクそのほとんどを自身で用意します。撮影会の場所が決まった段階で、そのロケーションにあった衣装やヘアメイクをいくつも考え、当日大量に持参するのは「事前打ち合わせ」というシステムが基本的に撮影会にはないこと、つまりは顧客であるカメラマンのニーズを当日その場で知り、それに合ったものを提供するためなのですが、それにしてもまず告知の段階で「私はこの日、この場所で、こういうことが出来ますよ」ということがPR出来ることが集客能力の一つとなります。

逆撮の応募写真でカメラマンの方々にそのPRをして頂きたかった。
ルケイブはロケハン可能なスタジオです。事前にルケイブに足を運んだカメラマンはいたでしょうか?本当にその場に立つ自分をイメージし、応募写真を送ってくださった方はいたでしょうか?
厳しい評価かもしれませんが、仕事を得る上では当然のことであり、今回求めていたのは3月17日顧客ニーズに応えられるカメラマンなのです。

ここまで私が厳しく書かせて頂くのは、この逆転撮影会開催に向けて、顧客ターゲットと想定される女性達、撮影会モデルだけでなく写真と遠い場にいる女性達の意見から「写真に撮られるということ」を改めて学んだからです。
世界は、女性の容姿に対し非常にシビアです。
顔面偏差値、戦闘力などという言葉が使われるくらい、容姿は武器であり防具であり、人生を多く左右する。
そして大半の女性がこの容姿に多大なコンプレックスを抱えています。
驚くほど多くの女性が写真に撮られることを怖いことだと言いました。
写真は醜い自分を記録するツールだと恐怖していることを知りました。
だからこそ。
だからこその、自分自身が「かわいい」「美しい」と評価できる一枚を求めているし、それ一枚を土台に自分を奮い立たせることを知りました。
一枚の写真が、女性の人生を左右する。
そしてその写真は、スマホの自撮りアプリでは撮ることの出来ない、他人の目の象徴ともいえるカメラでの撮影、それを操作するカメラマンという存在がいなければ生まれないものなのです。

求められての撮影は遊びではないように、撮られることは遊びではないのです。
あなたの撮った一枚を、スマホに保存し、内定のなかなか出ない就職活動中、面接の直前にその一枚の写真を眺め自分を奮い立たせる女性を想ってみてください。

写真は、写真を撮る人間同士が評論し合うために存在するものではない。
写真に関わる人間だけが眺めるものもない。
むしろ普段写真と遠いところにいる人が知る、写真の持つ力。
逆転撮影会のお客様には、そんな普段写真とは遠い方々も多く想定されます。
その彼女たちが「撮ってもらいたい」という写真。
3月17日は、そんな写真の溢れる撮影になることを願います。

そして今回運営より審査会へ送り出し、採用として戻ってきた10名のカメラマンの方々はそれをなし得てくれると信じておりますし、そのための協力は惜しみません。

皆さん、どうぞ10名の逆撮カメラマン、そして逆転撮影会をよろしくお願い致します。
43名の応募者、逆撮サポーター、企画を応援してくださる皆様に心からの感謝を込めて。

2018.2.13 よさの麻由

かわいく撮って欲しいです。でも、かわいいだけじゃ満足できません。

「かわいい」

かわいいは正義
かわいいは絶対的

「かわいい」の定義は
小さくて・丸くて・ぎゅっと真ん中に寄ってるもの
という一説があります

つまりは生物学的に「赤ちゃん」なのですが
人間もそうですし、ひよこなんかはそれが顕著ですね。
(ひよこ→にわとり の変化には驚くべきものがあります。)

「かわいい」は生物が庇護されるために備えている能力であり、
小さくて、丸くて、ぎゅっとよって
「危害を加えたりできませんよ。守ってもらわないと生きていけませんよ。」
を他者に訴え、庇護され生き延びる。

もうこの時点で「かわいいって…」と背筋がゾクゾクするのですが、
その「かわいい」を求め「かわいい」に奔走する日本女子の生命力には、世界が「Kawaii」カルチャーに衝撃をうけるのにも納得がいきます。

以前、アメリカ、ドイツ、イギリス、オーストラリア、マレーシア女子と、「女子モテ」6カ国会談を行ったことがあるのですが(シェアハウスに住んでいたので)
『cuteはあんまり価値がない。sexyで評価される。』
というのが世界での女子モテの認識のようで、日本の『Kawaii』は特別なんだと知っことは衝撃でした。

日本代表としては「とりあえず日本国内では、かわいー、って単語なんにでも応用きくから覚えておいた方がいい」と発言してきましたが、あながち間違ってはいないと思います。

 

さて、もう10年以上前放送の「情熱大陸」で、モデルの押切もえさんが

かわいくなければ生きてはいけない
かわいいだけでは生きてはいけない

そう述べていたのが印象的です。

かわいいと生きるがリンクしている現代の日本女性の叫びを代弁したかのような言葉だと私は思います。

さて、その「Kawaii」を根本から揺るがすような、それでいて女ならば大半が、『ああ、それわかる』といった話。

「あの子、かわいいものが好きって言ってる自分をかわいいって思ってるよね」

分かりやすくいうなれば、本当にキティちゃんが好きでキティグッズを集めている女より、キティグッズを集めている私ってかわいい、の女のほうが多いという理論なのですが

キティちゃんはちょっと特殊だとしても、女の言う「かわいいくて好き」は本当にそのものが「かわいいから好き」なのか、「かわいくて好きって言ってる自分が好き」なのか非常に分かりにくい。

というのも、自分自身それが混乱して、すでに分からなくなっていることも多いからです。
なぜなら、かわいいは生きるにリンクしているので思考すら支配されている。

かわいくなければ生きてはいけない。

セクシーでなければ生きてはいけない、という思考の女性は割合として少ないと思うのですが、かわいいの圧力はすごい。
でもって「かわいい」は「美しい」より身近で、なんか手に入りやすい感覚もあるし、何より「かわいい」はモテる。
『美人』『セクシー美女』は怖がられることがあるのに対し、かわいいはモテる。かわいいはモテます。モテますよね?

モテたいって、生存本能の一つだと思うので、日本で生きていくならやっぱり「かわいい」は生きるための能力なわけです。

しかしながら

本当に、小さくて、丸くて、ぎゅっと寄りたいのか、この国際化が進み、自己主張も美徳の一種になってきた今、縮こまることを本当に望んでいるのか

大ヒットカメラアプリのsnowって、小さくて、丸くて、ぎゅっとよった、この3点を抑えて画像加工がおこなわれていると思うのですが、
小さくて、丸くて、ぎゅっとならずに

大きく、角があって、ぐっとひろがって
そういう風でも普通に写真に写れたら

それはとても
存在感があって、生き物であって、しなやかで、生物として美しいのことには本能的には気が付いていて。

本当は

ゆるふわ~
きらきら~

じゃない、

生きている、食いしばって立っている、そういう私を見て、写して!生き様を記録して!

みたいな、それって、まぁ「Kawaii」以上に扱いがめんどうな女という生き物のエゴイズムだと思うんですが、それを求めているモデルって多いですね。そういうのって写真越しに伝わってくるし、すごくよく分かる感覚なんですよね。

撮影の笑顔の大半が作り物なんて、ほんとはみんな気が付いていて、でも自分は美しくないから、せめてKawaiiでいなければカメラの前に立っていられない。

かわいくなければ生きてはいけない。

でも

かわいいだけでは生きてはいけない。

かわいいだけでは生きてはいけない。
ここに、触れた写真を「撮られる側」のモデルたちが求めながら恐れている感覚、とてもよくわかる。

Kwaii以外の自分の守り方が分からないこと。
笑顔がうまくできないというのと同じくらい、笑顔でなければ怖くてカメラに顔を向けられないという秘密。

実はそんなに

ゆるふわ~
きらきら~

って素敵と思ってない本音。

かわいいだけでは生きてはいけない。
超現実主義の我々女たちがいかにそれを認識し、それでも
かわいくなければ生きてはいけないと戦っているか。

つまりは
かわいく撮ってほしいです
でも、かわいいだけでは満足できないです。

そういうワガママな生き物なんですね。
モデルがというより、女ってそういう生き物な気がします。

ただ、私が伝えたいのは
必死でまとっているKawaiiをはぎ取って、素顔をさらさせて、それを写せということでは決してないです。それは「内面をうつすということ、うつしたつもりになっていること」の記事で書きましたが、それはそもそも素顔でもなんでもないし、無遠慮すぎる。

完璧なるKawaiiを共に作り上げるか。
Kawaiiを取り払っても大丈夫だと、信頼関係の元共に模索していくか。

どちらにせよ
Kawaiiにはその先がかならずある。
あと、Kawaiiさらっとを脱げる才能を持ったモデルも存在しますね。才能。

ちなみに、私はここ15年「脱かわいい」を自ら目指して、セクシーをこじらせてカッコいいと強がりをはき違えて、
なんか最近は「生き物になりたい、生き物になりたい」
と、自然懐古主義的なループにはまっていますが、

かわいいって言われると普通に嬉しいですよ。

ね、女ってめんどくさいですね。面白いけど。

 

今日はとても、モデル満足目線の内容になりました。ただカメラマンの好きな写真とモデルの好きな写真の違いは、このKawaiiへの認識の違いが大きい気がします。

 

それでは今日もお読み頂きありがとうございました。

フリーランスモデルがFacebook退会を決めてみた

私は現在、twitter,Facebook,Instagram,とSNSを利用しており、その中で更新数が最も多いのはtwitterなのですが、
年月として最も使用してきたのはFacebookです。
その退会を決めました。

20代後半、外国人と日本人が共に暮らすシェアハウスに暮らしはじめ、その生活上での情報共有や、写真の共有のために始めました。
2010年、12月のことです。
それから7年が経ちました。

シェアハウスでの3年の生活。
その最中の震災。
結婚。
長期入院だった妊娠生活。
地方での育児。
離婚。
そして、モデルへの復帰。

多くを記録し、発信しすることで、他者とのつながりを感じることが出来、不安な時、遠方で一人だったとき、慣れない子育てや、子持ちモデルとしての復帰直後、多くの方に声を頂くことができたFacebookは本当に救いとも思える場でありました。

しかしながら2016年の仕事復帰以来、SNSを仕事に活用し始めてから始めてから、状況は変わりました。
若年層はInstagramがSNS発信のメインとなっている今でも、本人確認を必要とするFacebookは「仕事」上での信頼度が高いですし、Facebook経由であまりおかしな仕事依頼がきたこともありません。
フリーランスにとって、Facebookは大切な営業ツールの一つだと理解しています。手放すリスクはとても大きい。

しかしながら、もともと個人として使用していたものを、いつの間にか仕事で使用するようになったこともあり、私はFacebookに息苦しさを感じるようになりました。
多くと繋がっているようで、誰とも繋がっていないと感じるようになりました。

仕事用アカウントと、個人用アカウント。二つを持つことを考えたりもしました。でもいま私にはこのブログという本音を書ける場もある。ならば。

先日の美しいスーパームーンの夜に決めました。
Facebookを辞めよう。

仕事への影響、多くの方との決別、たくさん考えました。
しかしながら現在、

SNSの普及で、写真を含めたあらゆる発信が自己承認欲求、他者承認欲求を満たすためのものとして広がり続けることに疑問を感じる今、まずは私自身が、最も長期にわたり使用し、最もフォロワー(友達)の存在するSNSを手放してみよう、そう決めました。

【本日Facebookで投稿させて頂いた内容】

Facebookから退会します。

ある時期から、SNSは仕事のみの利用と割りきって使用してきました。
それ以前、シェアハウスでの暮らしの中で、
また遠方での生活の中で、長期入院中、

人とのつながり

を与えてくれたFBにとても感謝しています。

人とのつながりと、ビジネス、輪がどんどん広がり1度は「友達」が5000人に達しました。
流れてくるタイムラインのほとんどが知らない人です。
messengerがなり続けます。
ブロックを繰り返し、ほぼFBを見なくなりました。

それでも、1000を越える「友達」の数は
ステータスのひとつであり、何処かで仕事に繋がるという野心も混ざり、
他者承認欲求、自己承認欲求を満たすツールとして、手元に置いてありました。

正直に書きます。
FBで「友達」の充実した生活が書き綴られた記事を見ても、尊敬や賛同の気持ちが全く生まれません。

月が綺麗
空気が綺麗
私は愛されていて
今とても幸せ

私は疑問に思います。
もし本当に、そこにある美しさに心が満たされていたら、本当に愛されて満たされていたら、人はSNSというツールを利用し、私はいま満たされている
と発信するのでしょうか?

パソコンに、スマートフォンに、触れるているその時間、月は視界になくなり、愛する人との会話も減るはずです。

情報の共有という利点を除き、自身が満たされていると発信しなければ、耐えられないという孤独の叫びが蔓延しているように感じます。

私は成長した
私は愛されている
私は幸せ

思いました。
それらを自分の中に発見し、他人に見せびらかすことなく、宝石箱に入れて、鍵を自分で管理し、本当の人とのつながりの中で、中身をそっと見せ合う、
そんな人間関係を築いていきたいと。

仕事上必要なツールであることも、確かなのですが、もっとも長期に渡り使用してきたSNSであるFBを、辞めることにしました。

FBで繋がりが切れたら、切れれてしまう人間関係は、私にとっては求める
人とのつながり、ではないし、もう少し、月が綺麗なことを肉眼で見る時間を増やし、人の承認に頼らず、自分を管理し、娘の成長を見守りたい。

そして、これはたぶん多くの方がSNS使用で感じている感覚だと思ってもいます。

ある登山家の言葉ですが

「雪山で、雪崩の危険があるときに下山の決意をするためには、勇気、が必要だというが、そうではない。下山する計画があったかないかだけ」

下山という計画は当初から用意していた。客観的で冷静な判断でその計画を実行するのは感情論ではないということ。

その、言葉に惹かれ、勇気づけられ
退会という選択は全く新しくも、特別なことでもなく、物事を始めるときに準備していたことの一つの選択として、実行したいと思います。

そして、これは誰かとのつながりを切りたいわけではなく、一人になり、誰とつながりたいのか自分で判断したいという欲求からの選択であることをどうかご理解下さい。

それでは
7年間ありがとうございました。

今、とてもわくわくしています。

2017.12.6
麻由

そしてこの先、写真においても、褒められるためではなく、取り繕うことなく、過剰にカッコつけることなく、正直に、先入観を入れず、カメラマンと向き合い真摯に撮影に挑むことが出来るようになりたい。この決断がその未来に繋がることを心から願っています。

今日もお読みいただきありがとうございました。

それでは!

※Facebookは過去記事の保存作業中のため(出産した日のこととか)、しばらく残っていますが、出来るだけ早く、さらりと立ち去りたいと思います。

ポージング一つで企画もの

撮影会の運営と意見がぶつかることがありました。
きっかけとしては運営が、撮影会新人なモデルに対し「自分がポージングを教えた」と、まだまだ未完成なそのポージング姿を「自分が教えた」の主張に使うためなのかSNSで拡散したその行為を不快に感じたことと、その日たまたま私自身似たポージングをしていたことから、意見交換は始まったのですが、結論として私はとても腹を立てました。

まず、モデルを野球選手に例えるなら、これからプロを目指すかもしれない、新人選手にボールを手渡し
「こういうふうに投げてごらん」と指導する。
当然、身体作りも、基礎もない新人選手のフォームはガタガタです。
それは当然です。そこからみんな少しずつ技術を上げていく。

しかし本来まだ人目に触れる段階にない投球姿が、教える側のエゴで、世の中に拡散されたとき、叩かれるのはだれか。
選手なんですよ。
そういうガタガタなフォームの新人として、世間に認知される。
そしてネット社会の怖いところは、それが延々と消えることなく残るということです。

ですので、写真における著作権はカメラマンが持っている、という力関係において、誰がモデルのイメージを作ってくれるかというと、写真でありカメラマンなんです。この信頼は、作品作りの信頼関係同様、モデルにとって命綱のようなものです。
この信頼関係を、はなから考えていないような行為に、今回本気で腹が立ちました。

また私は、ポージングにもTPOがあると思っています。
運営(男性)はこう主張しました。

(phot by k_ino photgrapher)

「自分が教えたポージングと(ラインの強調が出来ていない)よさの麻由さんのポージングは別物です」

「カメラマンの多くは男性なので、女性のバストラインやヒップラインが綺麗に出ているとときめくのです。」

私は撮影会でランジェリーや、着物の着崩しをやりますし、もともとがグラビアモデルの出身ですので、こういった男性目線のポージングというのは10年以上経験してきました。ラインの強調というのはセクシャルな表現において非常に有効です。

(phot by K photgrapher)

しかしながら、外の公園で、バストラインとヒップラインの強調とか、まぁ、男性紙の企画ものぐらいでしか出てきませんよね。
本番に連れ込む前の「公園でたたずむ寂しそうな人妻に声をかけてみた」的な流れのカットでは、公園なのに、たたずむ人妻ラインくっきりハッキリ、みたいな。普通ありえない状況ですが、企画ものはあくまでファンタジーなので、それはそれで確立された世界としてアリだと思います。

さて、そうなると問題は「撮影会とはなんぞや?」の点になってくる。
そういう、企画もの的な意図を持った撮影会で、モデルもそれを理解しているし、カメラマンをそれを求めているという、そういう撮影会であれば、公園でラインを強調しようと、寄せ乳をしようと、ベンチで四つん這いしようと、公園の許可さえとってあればご自由に、の世界だと思いますが

普通の公園で、撮影会という場を使い、ポートレート作品を撮る。

大半のモデルやカメラマンは場所や天候といった背景と肉体、衣装、表情、ポージングという人間を使い写真作品を作る場と撮影会を考えていると信じている私としては、

「女性のバストラインやヒップラインが綺麗に出ているとときめくのです。」

ときめくのです・・・?
ときめく?
ときめきメモリアル?

ときめきなメモリアルのために皆さん写真を撮りに来ているのでしょうか?
ときめきなメモリアルのために私たちは写真に撮られているのでしょうか?

もちろん、女性のライン美が作品に大きな影響を与えることは理解しています。
同時にラインはTPOを間違えて過剰に強調すると、空間との調和がとれなくなり、先ほど書いた「企画もの」っぽい空気感ムンムンのものにすぐにすぐなります。
これがあざといポージングの一番の落とし穴です。

私は、撮影会を性産業の一つだと認識し、それに従事しているていると、以前の記事(撮影会は風俗業か?)で書きましたが、カメラマンと一緒に、作品を作るという作業が結果、そうなることもあるという認識であり、企画もの制作にはあまり興味がありません。
他の多くのモデルと同様、その場所に最もふさわしく存在しながら、カメラマンが求める絵の一部にどうしたらなれるのか、それを具現化させるためポージンを決めますが、これは何年やっても難しいし、反省だらけの奥深い世界です。

ただ、今回、撮影会を、ときめきなメモリアルの製造の場として提供しているかのような運営側の言動へは純粋な怒りが湧きました。
そんなの商売として考えていたとしても、主張するようなことじゃない。
モデルに対しても、カメラマンに対しても、写真に対しても侮辱としか思えない。
場を与えるという役割を担った「運営団体」「主催者」の品格は、作品にも影響すると私は思います。

しかしながらこの件に関しては
どの撮影会に出演するかの選択権を私たちモデル自身は持っていますし、
どの撮影会に参加し撮影するかの選択権をカメラマンは持っているので
結局は、それぞれが決めていくことなので
品格ある撮影会団体には良いモデルが集まるでしょうし、カメラマンも同じでしょう。
人に対する尊敬や配慮に欠けた商売は必ず衰退していくので、これ以上述べることはありません。

次回、今日テーマとしたのは撮影会の中でのポージングに関する出来事の一つでしたが
とにかく「ポージング」「ポージング」を目にすることが多い今

「カメラマン向けのポージング指導講座」はほぼ無意味だ、商売としては成り立ちやすいだろうけど。
と思っている私なりの理論を書きたいと思います。

それでは今日も、お読みいただきありがとうございました。

「モデルさんの喜ぶ写真」って?(11/11改訂)

「モデルさんの喜ぶ写真を」

というお話をよく伺います。
展示会やコンテストのための作品作りをしているわけではない。
誰よりも被写体となった「モデルに喜んでほしい」
そういったお話に、感動を覚えるとともに、それが第三者から賞賛を得る以上に難しいことであるということを、なかなかうまく伝えることができません。

この「うまく伝えることができない」感覚。
奥床しさ、察する能力が必須とされる日本的コミュニケーションは、時に、作品作りの大きな弊害となりかねません。

大半のモデルは写真を見せられたとき「素敵な写真をありがとうございます。」「この写真が好きです」ということはお伝えすると思うのですが、「この写真はありえない」「なんでこんなブスな瞬間を切り取ったの?」「これ嫌い」そういった否定的な意見を述べることはないでしょう。
例に漏れず私もそうです。

ひとつには、写真は瞬間を切り取るもので、脳内で作られた虚構ではありませんので、ブスな写真、好きじゃない表情、実物より太って見える肉のしわ、見せたくないものが写っている写真があったとしたら、撮影という時間に、そういう姿をさらしたモデル自身に責任があると思っているからであり、それは自分自身が反省すべきことだという考えからです。

そしてまた、これは別の機会に詳しく書きたいのですが、モデルの多くは多大なコンプレックスを抱えています。流行りの「ご自愛、自分大好き」の真逆を進むかのように、小さな顔に長い手足、整った顔立ちを持った美しい女たちは、自身を完璧からほど遠い不出来な存在と思い、自分で認めることが出来ない自分自身を、モデルという写真に写される立場になることで、カメラマンやSNSを通して他人に褒められることで、いわゆる自己承認欲求を満たし「生き延びている」
化粧の濃い女は自己主張が強いのか。すっぴんの女は気が弱いのか。
化粧という仮面をかぶらねば外界と接することが出来ない女の抱える穴は深く、モデル、それも撮影会モデルの多くは、この闇と戦っている。
なので簡単に「私が写っている素敵な写真」=「モデル自身が喜ぶ写真」は存在しにくいのです。

そしてまた、やはり日本には、物事をハッキリと否定したり、言いたい事を言わない、という文化がありる。
そしてそれは決して悪いことでも、恥じることでもなく、思いやりと協調性を大切にしてきたこの島国の誇れる文化だと私は思います。
今現在は、物事をハッキリ言ったり、場の空気を壊してでも自己主張をすることばかりが賛美されがちですが、自分の考えや思いを抑えるというのはある意味自己主張以上に精神力、忍耐力を使いますし、その忍耐が自身の身を守ることは多いですし、自己主張というのは本当に必要なときに、適切な仕方でやるほうがずっと難しいし、それくらい自分と他人に責任を負う行為だということを忘れないでいたいですね。ネットの普及で発言はどこまでも自由になりましたが、本当にたった一言が他人の人生を左右しかねるということ、これは表現者、発信者である限り忘れたくないことです。

さて、カメラマンとモデルに話をもどします。
「モデルが喜ぶ写真」
これがいかに難しいか、その理由は
あくまで、ポートレートというのは、カメラマンとモデルはペアであり同じ作品を作る立場ながらも、どこまでも他人なんですね。
相手の好みをわかろう、歩み寄ろう。
そう思ったって、現実「何が好きで、何を美しいと感じるか」そういったことは個々の感性であり、世界観であり、それぞれの内部にしか存在しない。
それをいくら言葉で説明しようとしたり、ほかの作品を見せて「こんな感じに」と伝えても、受け取り方も千差万別です。そして先ほど書いたように、モデルはあまりコンプレックスの闇は外には見せません。
だから、カメラマンとモデルの「会話による対話」は、わずかな歩み寄りにしかならなかったりする。

やはりカメラマンとモデルの絶対的な対話は「撮影」にしかないと思います。

私の場合、この人は何を欲しがっているのだろうかを探りながら撮影に臨みますが、それは簡単にわかることではありません。
「その表情いいね」「そのポージングいいね」
「かわいいよ」「きれいだよ」「すごいね」「すばらしい」「いいね」「いいね」「いいね」
「いいね」はSNSの「いいね」くらい曖昧な表現で、ほとんど役に立たない
それよりも、ファインダーをのぞく表情や、シャッターの音、足元から全身の動き、その場の空気のほうがずっと信頼出来る判断材料になります。

そして多くのモデルは、カメラマンが思う以上に、カメラマンを観察していると思います。

しかしながら、一回の対話で相手の「好き」を確実に捕らえるというのは本当に難しい。同時に自分の「好き」を一回で相手に伝えるのも本当に難しい
撮影一回目で、完全に互いの好きを把握し、それを互いに出し合い、写真を作る。
これ、一回のデートで結婚を決めるくらいのハードルの高さだと思います。

これは商業だとまた違うんですね。
カメラマンの好きとか、モデルの好きではなくて「クライアントが求めているもの」もっと大きく言えば「大衆が求めているもの」を提示されて、そこに作品に関わる全員が感覚をチューニングをするようなものなので、個々の好きは存在するけれど「求められている」わけではない。

私は、「モデルの喜ぶ写真」が撮りたいのであれば、同じ相手と、撮影を繰り返すことこれしかないと思います。
モデルも同じカメラマンに撮り続けてもらうこと、これによって劇的に成長するとも思います。

また、撮った写真を見せたときに、好き嫌い含め正直な感想を、お互いに言い合えたりしたら理想的ですが、当初書いたように日本人同士はそういったコミュニケーションをとても苦手とするので、
たとえば写真データーを送り「どれか5枚、好きなものを選んで」のように強制的に好きを選ばせることで、5枚以外の「捨てるもの」も知るという手段もあります。
そうしたら次の撮影では最初の「好きな5枚」の延長にある写真を撮り、再び写真を見せ、また取捨選択をさせる。
これで自分と相手の好きをどんどん深めて作品を作っていく。
撮影こそが、最大の学びの場であり新しく的確な答えを教えてくれるといつも思います。

なので本当に「モデルさんが喜ぶ写真を撮りたい」と思ったら、そのモデルを何度も撮り続ける必要がある。
一回しか撮らず「モデルさんの喜ぶ写真を」っていうのはやっぱり一回のデートで向こうからプロポーズさせるくらいのハードルの高さですから。
あくまで人間同士なので。

モデルが本当に喜んだ場合
その写真は彼女が一人暮らしであるならば実家に送られたり、リビングに飾られたり、彼女だけのプライベートな空間に張られたり、彼女と彼女と親しい人の生活の一部となっていく。そして、その一枚がコンプレックスの闇から彼女を救い、生き延びさせてくれる一枚となることも少なくはありません。

そういう素敵な作品を作っていきたいですね。

そのためにも、同じペアで何度か作品作りに取り組むことは、言葉でのやり取り以上に大切です。
それをやりたいと思った相手をみつけたら、恥ずかしがっても、気取っても仕方ない。何度も写真に取り組みましょう。
必ず、モデルが喜ぶ一枚に巡り合う日がくるし、同時に新しい二人で喜べる写真にも出会えるし、あなただけの至高の一枚にも出会えると思います。

第三者に見せるものではないから。
趣味だから。
まだ初心者だから。

そういう状況であった場合にも
「作品に責任を持つ」という姿勢は必ず、その先に繋がる取り組み方だと私は信じます。

なので
「モデルさんが喜ぶ写真を」という言葉を逃げ道にしないで欲しい。

モデルが喜ぶ写真は、きっとモデル以外の誰かにも衝撃を与え、作品は連鎖します。責任を負うというのはそういう喜びを伴うものだと、私は私の経験から断言します。

今日もありがとうございました。

11・11改訂

撮影会は風俗業か

撮影会は、風俗業か

この問いに、わたしはハッキリとYesと答えます。
直接な性的行為のない、風俗業だと私は思います。

ここで誤解を起こさないで頂きたいのは、職業に貴賤はない、なんてチープな言葉は使いませんが、風俗という仕事をどう捉えるかも個人によって違うということを前提にしていただきたいということです。

何より「風俗」「お水」こういった特殊職業の仕事内容を定義することはとても難しいのですが、私は、人が自身の欲望の開放を願い、その受け皿となる場を風俗と定義しているので、

美しい写真が撮りたい。
美しい女性が撮りたい。
美しい写真を撮ってもらいたい。
美しい女性でありたい。

こういった欲望を持った人間同士が向き合い、写真を作る、撮影という行為に励んでいる「撮影会」はまさに欲望の開放の場で、とても貴重な、そしてなんの変哲もない風俗業の場であると、私は捉えています。

では職業「風俗嬢」になりたいか?
と聞かれたら、ハッキリNOと答えるんですね。
長く銀座で働きましたので夜の世界のことは多少は分かるのですが、風俗嬢になりたいと思ったことはなかったし、今もそれはかわりません。

ただ、自分の仕事は風俗業だ、という感覚があります。
だからこそ身の安全を確保しなければならない、何のためにやっているかを明確にせねばならない、そんなことを日々考えます。

私はフリーランスですので、条件はありますが、スタジオやホテルでのランジェリー撮影も受けさせていただいています。
グラビア撮影は一番長く取り組んできた世界ですので、ありがたいお仕事です。
商業の時との違いは、その現場にマネージャーやヘアメイクさんの立会がない、カメラマンと一対一の空間であるということです。
ですので、カメラマンがプロであろうとアマチュアであろうと、私の場合は事前にメールでお伝えしておくのですが
部屋番号が分かり、一緒に入室した段階で、その日依頼した担当者に、電話をかけます。部屋番号と撮影終了時間を伝え、そこから撮影開始となります。
そして終了時間にはタイマーがなり、撮影終了となり終了連絡の電話を再び掛けるのですが、この終了連絡の電話が一定時刻以上ない場合の対応の取り決めが担当者と事前にしてあり、最終的にはスタジオやホテルフロント、警察へ通報がいくように手配してあります。

なんの仕事の話?と思いませんか。
フリーモデルの室内撮影における仕事のリアルな話です。

怖くないかと聞かれましたら、怖い時もあります。
ただ、それでもこの仕事に取り組むのは
私の場合、この仕事が、人生の優先順位を一番守りやすい環境を与えてくれる仕事であったからであり、そして経験のある仕事であったからであり、私はシングルマザーですが、幼稚園までは娘は保育園に預けることなく自分で育てるということを人生の最優先にしていたため、時間の融通のきくこの仕事はまさに最適でした。そして身に着けてきた技術や多くの方々の助けを頂くことが出来、仕事を続けられています。

それから私は、母親として、たいしたことを教えられる人間ではないけれど、仕事にはいつも娘への愛があります。逆にあらゆる仕事は娘を通して私へ届きます。故にどんな時も、怖さや苦しさや悔しさも、娘のクッションのおかげで耐えられてきた。何より、誇りを持って仕事をする姿を彼女には見せていたい、そう自分を律する道しるべがあることに今はとても救われています。

 

さて、私が撮影会を風俗業と書いたことで不快感をお持ちの方は多いと思います。

順にまず、国に定義されている風俗業のことには何も言えません。それはその世界の方にしか語れないことなので。
ただ、私は、自分は芸術家ではないし、アーティストでもないと自覚していると以前書いたのですが
芸術なんてものは、人間の欲望が名を変え形を変え、多くの芸術家たちの身体を通し、この世に許される、人々に許されやすい形で生まれてきたものの総称だと思っていて、その根本である「これが好きだ」「美しいと思う」という欲望を表に出すという行為はすごいことだと思うんですね。

だって、自分の好きなものを否定されるのって、この世で一番恐ろしいことじゃないですか。
どうでもいいものや、嫌いなものへの否定で傷つくことはありませんが、好きなものへの否定は、本当に怖い。だったら何が好きかなんて初めから秘密にしておけば、否定されることだってない。ただ好きなだけで綺麗にやっていける。そうやって蓋を閉めることもできるのに、否定批判糾弾の嵐の中へ自分の「好き」の欲望を捧げる。この力はすごい、人生かけてますよね。

自分の好きな写真を撮りたい
自分の好きなポートレートを撮りたい

私はカメラマンのそういった欲望に感動を覚えます。

同時にモデルたちの

自分が写真に撮られたい
私が美しいポートレートに存在したい

そういった欲望から心身をさらけ出す欲望に共感と感動を感じます。

そもそも、私を含め大半の人間は8等身持ってないんですよ。
陶器のような肌も持っていないですから。
クラシックバレエの世界では、腕の長さ、足の長さ、顔の大きさ、センチメートルで図られ、その基準内に収まった人間しか「踊れる人間」に認定されなかったりするんですね。もう神が選んだ人間しか踊れない場があったりする。
でもそんなの、モデル業界も同じで、パリコレとは言わず、ステージに立つモデルはまず神が選んでいます。骨格という産物を与えるか与えないかで。
では与えられなかった人間がモデルになろうとしたときどんな道があるか、紙面?広告モデル?読者モデル?整形?ヌード?撮影会モデル?

欲望は人に夢を与え、欲望はとどまらず、行きつく先を自らに選ばせます。

人が、夢を見る空間を利用して、搾取をしようとする人間も現れます。芸術は美しいだけの世界ではない。商売です。それも事実です。

しかしながら、撮影において

「好き」の欲望を形にしたいと向き合うカメラマンとモデルは、醜いでしょうか。

撮影会を風俗業とみなした場合

好きという欲望をぶつけ合うカメラマンとモデルは、その作品抜きにして、否定の対象とされるような存在なのでしょうか。

神に選ばれなかった人間が、好きの欲望を具現化しようとあがくことは醜いのでしょうか。

私はNOと書きたい。

同時に忘れたくないのは、結果出来上がった作品は「見せ物」ですから、見る人への愛情と、多大な配慮が必要です。
作るのはいくらだって自由だけど、発表する「作品」となったら、主人公は観客ですから。そこに信念や愛情がなければ害にすらなりえる。

 

撮影は特殊な時間です。
カメラマンとモデルの間には直接的な性行為は一切ありません。
ただ、各々の欲望の渦巻き方は、セックスのそれととてもよく似ているようにも感じます。

なので、カメラマンもモデルも、覚悟がなければ痛い目を見て当然で、自分の好きを捧げて守りきる覚悟で、向き合う必要があると常々感じます。同時に作品への責任も負わなければ。

負うものが多くて、それでも負債を抱えてはいないのが現状の救いだな、とリアルに考えたりしました。

それでは今日も、ありがとうございました!

ブログを始めた理由と、他のモデルに関して思っていること

写真に撮られる側のモデルの本音を発信したい、という名目でこのブログを書き始めたのですが「モデルの本音」プロアマ含めどれだけ「モデル」がいるんだ?という世の中ですので、あくまで私、よさの麻由が考えていることを書きたいという欲を表に出したものなのですが、
私は、これを書くことによって
「モデルはこう思ってるんだから、カメラマンは気を付けてよ」
という主張をしたいわけではないです。どれだけすれ違いが起きているかの提示をしてみたいと思いました。もちろん改善を求めて。

昔観た、木村拓哉さん主演の、木村さんが総理大臣になるという作品「CHANGE」の中のワンシーンですが、

気に入らないことや、納得できないことが出てきたら自分の言いたいことはちゃんという。
そうすれば、分かり合える。
のではなく、相手と自分は違うんだということに気が付く。
自分と相手は違うんだってことを理解して、そこではじめて、ではどうやったらお互いに理解が出来るか考えるようになる。

仕事なんだからと愛想笑いやその場をやり過ごすことを繰り返してきたし、今もそれを続けていますが、なるほどそれは、楽だけど(いや楽じゃないけど)その場限りになるなと分かります。
もちろん仕事ですから、その場において毎回主張し、場を乱すのもどうかと思ったりもしますので、せめて個人発信のこの場においては、
「私はこう思っている」
を正直に伝えるチャレンジをしてみたいと思いました。
そして、正直な反応を頂けると嬉しいです。
あくまで、すり合せのための提示なので。

某プロカメラマンの
「特定の誰かや作品を批判したりするのでなければ、それは主義主張であって悪意ではない」という言葉に支えられていたりします。

私は「撮影」の時間を作品作りの場であると同時に、ファンタジーだとも思っているので、すべてのモデルとカメラマンがストイックに写真に取り組み、強化合宿みたいな空間にする必要はないと思っています。
ハウススタジオで水着、とか変だなと普通に思うけど、それをアリにする空間があってもいいかなとも思う。
ストイックとか、アート系と言われることがあるんですが、アート系とかない。いや、むしろアート系とか自分で言っちゃったらネタでしょ、そもそもアート系って何?と思ってたり。いやアート系とか自称アーティストはキツイ。芸術家やってます、とか絶対自己紹介できない。そもそも芸術家ではないし。なりたかったけど、芸術家。

そしてストイックに見えるのは、生活がかかっている感であって、重い人には重いでしょうし、この数回のブログにもそういうのはにじみ出てて、私とは組めないなと思った方もいるだろうし、それはそれで撮影前の事前選別の参考になればとも思います。

 

さて綺麗ごと抜きに
私は、撮影会やフリーモデル全体の扱いが良くなればいいとか、そこまでは考えられません。
そこをどうにかするには、カメラマンに何かを求める以上に、モデルへのテコ入れが必要だと思うけれど、現状の商売として、魅力的なモデルが増えることは脅威なので、難しい課題です。

そもそも、個人プレイである仕事において、私は他のモデルの行動に口を出しません。年齢が倍違おうと、初日の新人であろうと、私から「~すると良いよ」とか「~は良くないよ」という発言はしない。それは各々がそれぞれの舞台に立つ時の礼儀だと思っているし、何歳であろうと経験が浅かろうと、それぞれの思いがあって、その場に挑んでいると思うので、たとえば「リップの色がもう少し濃いほうが…」と思ったとしても、それは私の好みなだけで、そのリップの色合いはその人がベストだと考えた結論かもしれなくて、そういうのに気軽に口を出すのって、土足で人の世界に踏み込むようなものなので、絶対にしたくない。それに意見していいのは、そのモデルを撮影するカメラマン(商業であったらクライアント)だけだと思います。同業者がどうこういうことじゃない。
遅刻とかに関しては、フリーランスなので、口を挟むことではないし、若い芽を摘む気はないけれど、育てるほど余裕がないのが本音です。

もちろん、聞かれたことには答えるし、いじめたりしないけど。
いや、ほんとに。

あとモデルが浅い知識で「ここは広角レンズが良くないですか?」とか「レフ入れたら」とかカメラの技術的なことに口を出すのは、個人的には好きじゃないです。

 

他のモデルのことはよく観察していると思います。
特に私は日常の中心が子育てなので、今流行りのファッションやメイクなどをリアルな空気を伴って教えてくれるのは彼女たちです。

なのでよく楽屋観察をするのですが、人気モデルは芯が通っているというか、下手に馴れ合わないし媚びないですね。こういう人格も才能かなと思ったりします。
女同士なので当然、噂話とかが蔓延するわけですが、人気モデルは基本的に悪い方の噂話のときにはほぼ加わらない。
あと口が堅い。
「カメラマンの○○さんはこういう人」
とか気安く言うのはほんとダメ。むしろ怖い情報。
本当に危ない人だった場合に周りにそれを伝える必要はあると思うけど、大半は自分とは合わなかった情報を、あの人はダメなカメラマンという情報にすり替えて流してくることが多いので。

あとモデルの○○ちゃんはこういう人、っていうのは論外で、別に組む仕事でもないのに他のモデルを批判したり、酷いと名指しやそれとわかるような雰囲気を含ませてSNSに書く人もいるけれど、それは自身の商品価値を下げるだけの行為なので、そういう人は早々に消えていく(メンタルな理由が多い)とこれは経験上思います。

でも、人気とか別に、すごいなと思う人ってやっぱりすごいし、30代半ばになって、すごいなと自分より若いモデルに対し思うとき、ものすごい嫉妬も同時に伴うし、焦りも感じたりするのですが、でもすごい人はやっぱりすごい。そういう人は絶対必要だし、悔しかろうがきちんと認めていきたい。

…と、前回は次回はヌードについてと予告したのに、いざ書くとなると全然違う内容になったのは、前回までのブログへの反応を頂いてのことだったので、次は…の予告は今後もなんかジャンプの次回予告くらい外れる次回予告になりそうなのでやめておくことにします。

それでは、今日もありがとうございました。

内面を写すということ、写したつもりになっているということ

「モデルの内面を写したい」
というお話をよく伺います。
取り繕った笑顔や、訓練されたポージングや、そういった作り物ではなくて、
「自然体の姿」を写したい。

カメラの前で「さあ、撮って頂戴」と挑むモデルの姿でなく、
自然なありのままの姿を撮りたいと。

では質問です。
あなたには自分の本心を、嘘偽りなく、気取ることもカッコつけることも大げさにすることもなく、さらけ出す相手が何人いますか?
それは恋人でしょうか?家族でしょうか?親友でしょうか?
もしくはいない?

それから、あなたに自分の本心を、嘘偽りなく、気取ることも、カッコつけることも大げさにすることもなくさらけ出してくる人はどれくらいいますか?
それは恋人?家族?親友?
もしくはいない?

私はね、人と人との間にある、自身と他者という壁は果てしなく堅牢で、進撃の巨人のウォールマリアより厚いと思うんですよ。
「内面を写したい。」
気軽に言う人が結構いるんですね。
ファインダー越しのモデルとカメラマンの間にある壁は、ウォールマリア級なわけですが、それを壁を取り払って、内面を撮れると思っている人は結構いる。
どんだけ超大型巨人がいるんだ、ってつっこみたくなります。

被写体の彼女が普段見せない、憂い顔を見せた瞬間をシャッターに収めた時、照れ笑いをした瞬間を収めた時、彼女の内面を撮ったと思いますか?
内面。
内面ってそんな薄っぺらいものなんでしょうか。

ちょっと毒っぽくもなるのですが、真実だと思うので書きますね。
そもそも女、それも被写体をやろうなんて度胸を思った女たちの大半は憂い顔も照れ笑いも計算で出来ますし、変顔にしても自虐ネタとして許せる範囲で披露出来ます。
つまりは一言でいうと、女が他人に内面を見せる瞬間なんてほぼ存在しないんです。特に1対1の撮影でカメラを向けられている時に、自分をダダ漏れにするなんてほぼありえない。
そもそもカメラの前という状況が、非日常な異常な時間であって、相当な精神力を使ってカメラの前に立っている。

では、撮影慣れしていない女の子の緊張した表情を撮ったとして、それって内面を撮ったことになるんでしょうか?
中2病を拗らせた感じの、痛い表現を撮って、それをその人間の内面を撮ったと言えるのでしょうか?
私はそうは思わない。

カメラの前に立つ覚悟を持った人間が、それがプロであれアマチュアであれ
カメラマンを信頼し、カメラマンに自分を捧げる、それは見せ物として成り立つ内面の模索であり、モデルとカメラマンは支えあって作品は出来上がっていくし、そこに互いに「内面をさらけ出す」なんて意識は存在していないと思います。

カメラマンは欲しいものを欲しいと正直にモデルに伝える。
モデルは可能な範囲でそれを提供する。

そういうお互いの皮をはいで、欲しいものも、出来ないことも伝えあって、ほんの少しずつ、いらないものを取り去っていって作業を進めていく。
同時に人間同士の尊重は大切で、踏み込みすぎてはいけない距離感がその二人によって存在し、それをきちんと互いにわきまえて尊重し合う。
(この距離感を読み取る能力の高さは才能の一つだと感じます。)

 

これは私自身の話ですが、カメラマンさんと2人での集中出来た時、撮影の風景が遠のいて、自分の中にある一人で子供を育てているという不安や孤独感が、その状況とは無縁なのに溢れてきて、その時側にいたカメラマンさんに、泣きつきたくなるのを抑えるのを必死で撮影に臨んだことがあります。
ただ、それがカメラマンの求める作品であったとは思っていないし、この体験もわたしの独りよがりのものだったと思うのですが、その時私の世界に存在したのは、そのカメラマンさんだけでした。私にとってはたった二人きりで、唯一頼れる存在でした。そういう瞬間が帆赤の形でも、いろんな形でも訪れることがあるのも確かです。

「内面が撮りたい」ってものすごい難しいと思うんですね。
最初に質問させていただいたように、、誰かの内面に触れたことや、自分自身はそれをさらけ出したことありますか?

カメラははそれを助けてくれる道具ではないし、写真、撮影はまず人間同士が行う行為です。

ただ、撮影という場において内面を求めるのであれば、まず外見を誰よりも、そのモデルが納得するような、そんな写真が撮れるようになることは必須条件ではないでしょうか。
だってそれは、モデルの信頼を得る一番の近道ですから。

一般人や素人の、はにかみや照れは、あなた以外にも撮れます。
それは断言します。
自分だけの写真が撮りたい、自分だけの彼女が撮りたい。
他人の内面を撮りたい。

そしたらもう、技術を磨いて信頼を得て、自分を捧げて、そして捧げ返してくれるそんなモデルを見つけるしかありません。
本当にそれって難しいことなんだけど、モデル側の私もいつもいつもいかに捧げることが出来るか挑戦して玉砕しているのだけれど、ただ最近思うのは、ポージングや作り笑顔も、偽物とは言い切れないと思うんですよ。
それを出来るようになるために、訓練は積んでいるわけで、生き様はやはり写される。

だから、薄っぺらい内面もどきではなく、人間愛で支え合うポートレートにはきっと人間性がついてくる。
そういうものを私は作りたいです。

そして自身の技術がまだまだだと思っている方にこそ、プロのモデルたちを撮って頂きたい。恐れず、果敢に、自分に捧げてくる人間を受け止める感覚を味わってもらいたい。

ということで、今回は内面を写したい欲求に対するモデルとしての見解を書きました。
次回はそうですね。
内面の表現ともつながるのですが、ヌードに関することを書いていけたらと思います。

今日も最後までありがとうございました。

撮影会モデルとカメラマンの恋愛はあるのか否か(後編)

中編では
撮影会モデルとカメラマンの関係性は
労働者と客の関係性であること
故に恋愛には発展しにくいことや
恋愛と信頼のすれちがいが起こりやすいことなどを書きました。

さて

撮影会モデルがカメラマンに求めていることはこれだ!5選!

(Naverまとめ風に)

あなたと私は「ファインダー越し」
私生活には一切踏み込まないで
変な期待を持たないで
怖いことしないで
私と最高の写真をつくりましょう

これを書いていて、なんだかとても「申し訳ないことを言ってる」気分になりました。でも、モデルとカメラマンの関係はこういうルール下にあるはずで、たぶん間違ったこと主張してないのに、なんだろう。
「撮影会モデル」としての立場の私は、これを表に出したことで、業界的な大きなルール違反を犯したかのような、なんだかそんな焦りに襲われています。

今日は、何としてでもモデルとカメラマンの間にある壁を崩して、恋愛を進めたい。その場合は?の私なりの答えを書きます。

人の恋路を邪魔して馬に蹴られたくはないし
人の恋路を応援して面倒事にも巻き込まれたくないし
そもそも他人の恋愛なんて一切興味がなかったりするのですが
そんな私でも恋はしますし、結構夢中になります。

その視点から。

まず、撮影会モデルとカメラマンという関係性、これは難しいです。
他にも
・アイドルとファン
・先生と生徒
・商売人と客
こういう、なかなか恋愛に発展しにくい壁のある関係性というのが世の中にはいくつも存在します。
その時どうしたらいいか?

この壁のない関係のところで出会うんです。
先生と生徒の関係にある壁と、先生同士の関係にある壁はどちらが低いか。
圧倒的に後者ですよね。

先生に恋をしたら、生徒のままでいてはいけない。
対等な先生という立場まで自分を押し上げていって出会うんです。

例えば、私には何人か、写真越しに大ファンなモデルさんがいたのですが、一年前にはネット越しにしか知らなかったその尊敬するモデルさんと、個人的に連絡をとりあったりご飯を食べに行くようになりました。

私は彼女に「対等な立場」で出会うため、某撮影会に出演し、そこの楽屋で「同じ出演モデル」として出会い、「同じ出演モデル」として会話していく中で、尊敬していることを伝え、それから自分のパフォーマンスを認めてもらうことで、友人として迎え入れてもらいました。

とても計算高いでしょう
でも、関係性の構築は本当に大切です。
私がSNSで彼女に毎日毎日「ファンです、尊敬してます」と書き込み続けても、それは独りよがりな相手への期待の押しつけの感情を持った人間と、持たれた人間の関係が永遠と続くだけで、まず出会わなければはじまりません。(実際会ったら実は気が合わないとかも普通にあるし)

そして出会ったとき、可能な限り対等でいることも大切です。
それは立場もありますが、自分には何が出来るかを相手にハッキリ示す必要がある。

好きな撮影会モデルがいるとする。
ファンとして、撮影の枠を取り撮影会に通い詰めても、関係は先には進みません。
連日の個人的なDM、お客さんへの対応として返事はくるかもしれませんが、迷惑と思われているかもしれません。

どう対等な立ち位置を得るか。
自分には何が出来きて、それをどう認めてもらうか。

こういう方法があります。
あなたはヘアメイク技術を専門家レベルまで学び、その後、個人的な作品撮りなどの撮影で彼女モデルに起用し、あなたはヘアメイクとしてモデルの彼女と出会う。持っている知識から、彼女へ一番似合うアイシャドウの色を提案したとき、あなたとモデルは、撮影会モデルとファンのカメラマンの壁を越えて、対等な仕事をする関係にいると思いませんか?

ほかにも、人脈を生かし彼女に写真の仕事を提供する仲介役をする

彼女を起用した写真でフォトコンに入賞し、彼女のモデルとしての知名度を上げる(私はこれはちょっと好きじゃないけど、効果はあるでしょうね)

撮影会モデルとカメラマンという関係を、新たな関係に変化させる方法は、あなたがどんなことが出来る人かによって無数に存在します。

ただね、男女ですから、どんな関係で出会っても最初から好きになっちゃったり、嫌いになっちゃったり、その辺は必ずしものマニュアルはなくて、
ただ、嫌われたらもう撮影も出来なくなりますから。

撮影会モデルがカメラマンを嫌うのはこれだ!5選!
(Naverまとめ風に)

「ファインダー越し」を超えてくる
私生活に踏み込む(ネット上含め)
変な期待を持ちすぎる
怖いこと、発言をする
いい写真が作れない

ちなみに、私の知る限り
モデルカメラマンカップルは、
読者モデルとプロカメラマン(雑誌撮影時に出会う)→結婚
金銭の発生する撮影で意気投合→結婚
相互無償の個撮で意気投合→結婚
いることはいるんですよ。
でもほんと、なんか彼らは出会ったときから「ちょっと気になる人だった」的な感情を抱いていたようで、そんな風に話をきいているので、

うん
やっぱりこう書きたい。

人生捧げて肉体を捧げてカメラの前に立っているというのに、数年ぶりの恋だから、君に彼氏ができたらもう君のことは撮れない?
くだらない!!!!
彼氏が出来ようと籍を入れようと、子供産もうと、いつだってあなたを綺麗に撮るよ。
そんな言葉のほうがよっぽど感動する。

今後もカメラマンとモデルの恋愛についてはたびたび触れることとなるとは思いますが、ひとまずこれで「撮影会モデルとカメラマンに恋愛はあるのか否か」は終了したいと思います。前中後と長くなった記事を読んでいただき本当にありがとうございました。

つぎはぬるっとした、ゆるいみだれ髪を書いてみようと思います。

よさの麻由